遊び

アニメを見終わったら何か自分もやらねばならないことがあるような,そんな気がしてくる.でも,生きることの無意味さに気づいてしまってからは,何をなしたところでどうせ意味はないという気持ちが常にあって.どこか矛盾を抱えてしまう.なんか自分のやるべきことを決定してストイックかつ完璧主義的に生きるような方法を今までとってきたけれど,失敗ができなくなって続かないとか,目標が大きすぎて嫌になるとかそういうことがよくあった.

 

なんとなく机の上の小さな棚から「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を久々に読んだ.ファインマン先生はロスアラモスの原爆の仕事から帰ったあたりで随分擦り切れていたらしく,ファインマン先生もこういう時期があるんだなと思った.

 

このあと,出がらしになったファインマン先生は,楽しむ方向に開き直る.

(様々なオファーに対して)...期待に近づこうと努力する責任なんて何もありゃしないんだぞ!

アラビアンナイト』を読む調子で気の向いたときに,その価値なんぞぜんぜん考えずに,ただ物理で遊ぶことにしよう.

これは.ファインマン先生らしい回答だと思った.楽しむことを忘れた人生は苦しい.

 

一番を目指す人,もしくは周りと競って目標を達成しようとする人はストイックさが必要だ.でも,独自性とか自分の世界観,キャラクターを出す方向に行くなら,楽しみながら実験を繰り返して,とことん考える.そういう手も結構いい戦略なんじゃないかと思えた.

 

工学部にいると,人類を豊かにするとか幸せにするとかが目標になるのかもしれないけれど,そんな目標はどうだっていい.ただ手を動かして考え続ける,それで楽しんでいたい.期待に答えなくていいし,たくさん失敗もしたい.失敗しても嘘はつかずに正直でありたい.寂しい時は人と話したいし,集中している時は人とかけ離れた場所にいたい.

 

なんかそんな言葉が頭を埋め尽くして,結局何を書こうとしてたか分からなくなってしまったので,今日はここでおしまい.

 

 

 

2020→→→2029

2020年代が幕を開けた.これからの10年間どんな時間を過ごすんだろうか.

 

過去を振り返ってみると,2010年代は随分悩んだ期間だったと思う.みんなが右を向いた時にどこか違うなと思いながら一緒に右を向いてきたけれど,ようやく左も後ろも前も好きな方向に向けるようになってきた.どこを向くかのバランス感覚は難しいけれど,僕らは決めなくても生きていける.周りを遮断したい時もあれば,みんなと右を向いて笑っていたい時もある.そういう「小学生のバリア」みたいなズルイ回答を持てるようになってきた気がする.

 

これからの10年はプレイヤーとして行動する時間にしたい.正解みたいな言葉に惑わされず,答えを決め切らないで矛盾し混沌とした言葉の霧の中を,連続したワーキングメモリを頼りに走り切りたい.

 

2029,遠いな.人生はクソほど長い.できれば結婚してるといいんだけれど.

メモ:学ぶコツ

いきなり一番高い俯瞰視点から入ろうとすると具体的なイメージがつかなくて死ぬ.論文はその辺,必要な情報しかないから良い.出来るだけ具体的なことをしていよう.

 

結局,自分でこじ開けてくしか道はなさそうだ.周りからの支援にはあまり期待しないでおこう

なんかわかった

繰り返す虚無感を抱えたまま,あと40年くらいは生きるのだろうか.そう思うといっそ..ということを考えていたけれど,最近なんかわかった気がする.

 

温泉が湧き出てくるみたいに,常に頭の中にモヤモヤ湧いてくる言葉.それを裏切ってしまったときに,思考が詰まって虚無感に苛まれる.

 

ならいっそ,自分を裏切らなければいい.自分に嘘をつかなければいい.周りの目線を気にしてやらないことを正当化したりしてはいけない.やれるならやるべきだ.それが虚無感に包まれない良い方法だと思う.賢く自分の為に生きているようで自分の為に生きていないのではいけない.

 

何かできなかったら人から無能だと思われるんじゃないかとか,怒られるんじゃないかとか考えていたけれど,常に自分のベストを出していれば堂々としてていい.ここでいうベストはメンタル状態や集中力も含んでいて,常にやれるだけやってればいい.もし課題とかを達成できなくても自分が能力が届かなかった.それだけ.そこに感情の浮き沈みはない.

 

最近論文を書いているが,綺麗な文章を書くのは難しい.人と話してこなかったり,文章を書いてこなかったからだと思うけど,まあでも,ちっぽけな自分のままやるだけだ.どのみち永遠の今を歩くしかないのだから.

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前の記事でずっと孤独だといったが少し訂正したい。孤独ではなかった時間は僕には何度かあった。その中でも一番心に残っているのは、ちょうど葉っぱが赤色になるこの季節の話だろう。

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あの時間は、孤独じゃなかった。一人じゃなかった。本当に本音を話せたかは覚えていないし、少しは理解し合えたのかも今となっては確認しようがないけれど、信じられる人が近くにいる。それは確かに幸せなことだった。満たされていた。

でも、ある時を境に会わなくなった。そして僕は信じられなくなってしまった。また一人になるのが怖かった。一方的にLINEを送った。どうすればいいのか分からなかった。バカだった。誰よりも近くにいるはずなのに、果てしなく遠くに感じた。最後の最後の別れ際に「また一人か」と僕はボヤいた。

 

この季節がくると寂しくなる。暖かさを知らなければ、もしくは全部誰かに話せてしまえる人なら、それか新しい人を見つけられたら、こんな文章を書くこともなかったのかもしれない。自分の欠陥を心底恨みながら今日も生きるほかない。

孤独とブログを書く理由

 

 

幼少期から今ままでずっと「孤独」だ。最近、孤独なのは人に打ち明けないからだと思う。いつも誰にも理解してもらえないと思っていて、自分の本心を人に話したことはほとんどない。

 

どうしてこんなことになっているのかは自分でもよくわからないが、かなり小さい頃からで、今となっては自動的に頭が本音を避ける。いつも仮面をしていて、相手に合わせてそれっぽいことを話す。思ってもいないような相槌を打って、どうでもいいと思っていることを興味ある風に聞いている。「人間失格」みたいな話だ。

 

でも、そろそろここから抜けたい。実は僕の脳の構造自体の問題とか遺伝的な話なのかもしれないけれど、とりあえず失格しても戻ってこれると信じてチャレンジはしてみる。

 

ここまでのオキモチが今こうしてブログを書いている理由につながる。無意識でそうしてしまうなら意識的に本音を話続ければいいのだ。しかし、いきなり人に本音を話まくるのはいささか厳しいものがある。だからこうして誰もみていない(しかしかろうじてオープンな)場所で,陰口的かつ脱兎のごとく今もブログに残していっている。

 

ここには本心しかかない。遠慮もしない。そう決めた。

 

PS.

文章がまとまらない...

 

ゆるやかなし

少し前に東山動物園に写真を撮りに行ってきた。

空は雲に覆われて、どこかどんよりとした空気の昼下がり。そんなふうに思えたが、写真を撮るには絶好の日和である。

まず園に入って気付くのは、あの匂いだ。小学生の頃に嗅いだ独特の獣臭さは、よもや忘れることはあるまい。

子供の頃はどんな風に動物を見ていたんだろうか。大人になった僕はおそらく子供の時とは異なる感覚が伝わってくる。

だるそうなのだ。

園内の動物たちは皆、どこか眠そうで、いかにもゴロゴロしてる主婦か、通勤電車にもまれる最中のサラリーマンか、ヒキニートかそんな面持ちである(サラリーマン以外は実際に見たことはないのだが)。

毎日ゴロゴロしていたい気持ちもないではないけれど、そんな生活を送っても、きっとゆるやかに死んでゆくだけなのだろうなと思った。